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花を愛する心は、世界のどこの人々にも共通しています。野辺に咲く名も知れない草木にいい知れない心のやすらぎを感じたり、あるときはそれを折りとり、持ちかえって室内に飾ったりします。花や草木に対して私たちがこのような愛着心をいだくのは、それらが単に美しいからだけではありません。美しいことももちろん関係していますが、それが人間と同じような生命を持っていて、季節という設定の中で盛衰、生死をくりかえすことが切実に共感されるから、花の美しさ、草木のみずみずしさが、より強く私たちをひきつけるのです。

いけばなが、はじめ「供花」という形で人間生活と結びついたのも、この生死に対する共感が根底にあったからです。人間にとってさけることのできない死をとおして、あるいはすくなくとも死との関連によって私たちは神仏を具体的に認識します。その神仏と死を語るとき、あるいは死との関連で生を語るとき、同じような生死の条理におかれている自然の草木を媒介にしたほうが、私たち人間と神仏とのコミュニケーションが容易だったのです。これが「供花」です。生も死もよくわきまえている花(草木)を供えたり献じたりすることによって、私たち人間は神仏と対話をこころみてきたのです。

  鳥獣戯画
平安時代後期 桃底の花瓶に蓮華を立て、僧形の猿が常緑樹の枝を手に、芭蕉の光背を持つ蛙の仏に供養している。高山寺蔵
このように、いけばなの発生はまず宗教的なものから出発しましたが、やがて室町時代にはいり、供花は座敷飾りの花としてようやく宗教から脱却することになったのです。それは、寝殿造りというそれまでの建築様式が、武家造りを経て書院造りに変化したことにも起因していました。書院造りというのは一隅に書院、押板(後世の床の間)、棚をもうけた座敷のことで、儀式や賓客との応接に使用しました。この押板の上に、いけばなの最初の様式といわれる立花が飾られたのです。

この室町時代は、花をはじめ能、庭園、茶の湯などの、いわゆる日本的な芸能がさかんに興った時代です。町衆といわれた商人たちも、武家の生活を見習ってこのような芸能をさかんにたしなみました。能阿弥、立阿弥、珠光といった芸術家の輩出したのもこの時代です。

生花彩色花形図 貞松斎米一馬選
挿花衣之香 享和元年(1801)刊
   
一方、座敷の書院や棚にも抛入花、砂物などという花が飾られ、特に抛人花は安土桃山時代にはいって茶の湯の花にとりいれられて簡素な美しさを発揮しました。一般に「茶花」といわれている花がこれです。立花が次第に豪華に発展し、後に「立華」と呼ばれる華麗な様式を確立したことから、簡素と豪華という対照的な二つの流れが、安土桃山時代から江戸時代前期にかけてのいけばなを特徴づけたことが知られるのです。

   
豪華と簡素というこの二つの流れの中から、江戸時代中期にいたって「生花」という新しい様式の花が生まれます。立華と抛入花の影響を受け、当時の町人文化を反映して生まれた新しい様式のいけばなです。豪華で複雑な立華の役枝を簡略化し、加えて簡素な抛入花に格をあたえる形で、その様式が完成されました。
庶民の芸術といわれるように、この生花の花形は儒教の理念に基づく「天、地、人」という役枝を構成の基準にした非常にシンプルなスタイルなものでした。それだけにこの「天、地、人」は美を表す基準であったと同時に、人間の歩むべぎ道を示すものと考えられたのです。
生花に対してこのような考え方が行われたことにより、いけばなは花道と呼ぶにふさわしい芸域に達したと言えましょう。

この生花の先覚者が、宗甫小掘遠州公の芸術的思想の流れをくむ春秋軒一葉であり、それをさらに展開したのが初世貞松斎米一馬なのです。

    「瓶花群載」明和7年(1770年)刊
 春秋軒一葉作 水仙の生花
 
      当時の各流派の代表的ないけばな図が載せられていて、いわば、当時の作品集でもあった。
すでに明和3年の「当世垣のぞき」には、遠州流の名前があげられている
 
                       
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