流祖 宗甫小堀遠州公
宗甫小堀遠州公は、茶人や造園家としてその名を残しています。しかし、単にそればかりではなく、文化万般に深い関心を示し、芸術、思想、政治など多方面にわたってその才能を発揮した人物です。茶の湯を古田織部に、和歌を冷泉為頼と木下長嘯に、書道を松花堂昭乗に学ぶなど、それぞれの道に通じた多彩な風流人でした。
特に、茶の湯においては、のちに茶道遠州流の祖と仰がれるように、その道を極め、徳川三代将軍家光公の指南役という名目で江戸城に迎えられています。その茶の風は、利休の佗茶より華美なところに特徴があり、当然、茶花においても遠州流の生花の特徴として伝えられる、華麗な要素をとり入れていたと思われます。「きれいさび」といわれたこの遠州公の芸術性をいけばなに生かし、その思想と美の心を現代に伝えているのが遠州の花道なのです。宗甫小堀遠州公を流祖と仰ぐ所以がここにあります。
初世 貞松斎米一馬
初世貞松斎米一馬は、流祖小掘遠州公より発して七代目にあたりますが、それまでの遠州流挿花を展開して「遠州正風宗家」を名のったことで遠州流中興の祖とされ、「遠州」の始祖となったのです。
初世貞松斎米一馬が発展させた正風挿花は、花伝書『遠州流挿花独稽古』に以下のように記されています。
およそ、いけばなといへること、座上のかざり、花をいける本にして、さながら山野に生たる中にも面白みを工夫し、風情をつけて、詠深くいけるものから、いけばなという
正風は、いけ花の本情を忘れず、失はずして、しかもすがたに面白みをつけて、風情見所あるようにいけるを旨とする
その創意工夫にみちた芸風をうかがい知ることができます。
歴代の宗家(初世以降)
二世 貞松斎米一馬
本名・米沢貞太郎。初世の実子で、文政5年(1822)に若くして他界しました。そのほかの伝記は不明です。
三世 貞松斎米一馬
本名・園田正寛。文政9年(1812)江戸に生まれました。花道の師は初世米一馬で、明治3年(1870)、二世の死後長らく空位にあった宗家を継ぎ、以後明治29年(1896)に85歳で他界するまで、宗家として遠州の発展につくしました。
四世 貞松斎米一馬
本名・山岡林平。文政11年(1828)土佐藩士として生まれました。明治30年(1897)に宗家の座を継ぎましたが、わずか3年後の同33年(1900)に73歳で没しました。幕末から維新の動乱期に花道一筋に生きた人です。
五世 貞松斎米一馬
本名・園田清吉。三世の実子として、安政元年(1854)に江戸に生まれました。三世他界のときはまだ若輩であったため、宗家継承を辞退、四世死後、大正4年(1915)に宗家を継ぎますが、7年後の大正12年(1923)、関東大震災に遭遇、69歳で不慮の死をとげてしまいます。
六世 貞松斎米一馬
本名・芦田春寿。明治11年(1878)8月16日に現在の群馬県前橋市で医師桜井伝三の三男として生まれますが、母親は身体が弱く病床にありがちだったため、東京日暮里の祖父母のもとで育てられました。祖父宅の近くには初世貞松斎米一馬の菩提寺である径王寺があり、幼年のころよくその境内の華神塔のまわりで遊んだとのことでした。
六世がいけばなの道に入ったのは、幼年期に病弱であった春寿が、何年かののち群馬県伊香保に脚気療養に出かけ、保養のかたわら初世の孫弟子にあたる二世貞草斎一寿、貞照斎一果、貞泉斎一得らから正風の挿花の手ほどきを受けたことが直接の契機でした。以後、遠州流花道を志すことになったのです。
そして、明治29年(1896)1月、晟照斎一寿を号することを許され、さらに同年の秋には、土佐の貞春斎一英の四世宗家継承にともない、その前号「一英」を流内の人々の希望を受けて襲名することになりました。
明治31年(1898)には、京都訪問を果しましたが、途中病に倒れ、その後しばらく葉山の長者園で静養することになります。その間、東京小石川の四世宅を訪ね、花道について会話を重ねたといいますが、これがもとで 初世米一馬などの歌を集めた『遠州流挿花前百首』『遠州流挿花後百首』を編しています。
明治33年(1900)、結婚により元禄以前にはじまって今日まで代を重ねた、洛中の名家芦田家に入籍します。この結婚による心身の安定が、のちに流の内外における数々の業績につながり、宗家継承の端緒を開くことになったのです。
大正13年(1924)、前年の関東大震災で急逝した五世貞松斎の意思を継ぎ、全国門人の擁立によって宗家の座を継承しました。爾来、昭和41年(1966)2月、89歳で他界するまで、40数年間にわたって宗家として遠州の発展に努めたのです。
六世はまた、当時排他的な傾向の強かった諸流派の協調を説き、「京都華道連合」を結成し、京都においてはじめて諸流派の合同華展を開催しました。
正風挿花の研究については、明治41年(1908)に『華包』と『遠州流挿花三体之巻』などの著書をあらわし、造詣の深さを世に示しました。
そのほか、京都市との共催で毎年行われる「華道京展」の運営委員を長く勤めるなど、流の内外にわたって活動し、花道の発展に力をつくしたのです。